信じることは美しいことである。それが楽観的な行いだからだ。
信じることは醜いことである。それは諍いの元凶になりうるからである。
Shijmi Cham 第六星暦1543年 霊1月 12日 ~ アランは幸福論の中で「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」と記している。私は全くその通りだと思う。意志を持つことは自分の価値観に基づいて思考を行い自分の行動を律することである。このような意志に基づく行動(楽観主義のような態度)は私には知的で美しく感じられるのである。
しかしながら、信じることによってトーマス・ギロビッチとリー・ロスの著作「その部屋のなかで最も賢い人」で説明された"素朴な現実主義"に陥る可能性がある。彼らのいう素朴な現実主義とは、自分が認知した世界こそ真なる現実の世界であると"勘違い"することを指していると読み取れる。現実と認知のずれというのは生きとし生けるもの全てに起きることであるが、それをただ一人"自分"にだけは起こらないと思っている人を指しているが、具体例はこの本を読んでもらいたい。(素朴な現実主義については面白い考察がいろいろとあるので、この本を読む他にもインターネットで例を探してみても面白いかもしれない)諍いというのは自分の現実と相手の現実のずれを修正できないことが発端となることが多い。すなわち、安直な信仰が諍いを生むのである。
そんな信仰の元に生み出された蛮神イフリートを私は討伐してきた。アルマジャ族の価値観で正しいとされ、アルマジャ族を救うために生み出された蛮神。美しい炎に包まれた黒く輝く肌を持つイフリート。何度もアルマジャ族によって呼び出され、その度に強さも賢さも増すイフリートはアルマジャ族にとって救世主そのものであるはずだ。だが、私達ララフェルを始めとする人間にとっては脅威であり、命を脅かす存在である。私達は奪いあいながら生きている。もちろんそれはアルマジャ族もララフェルも同じことである。正義でそれを裁くなどとは言語道断であるが、私達は自分の命がより長持ちするための行動や理念を正義と呼ぶことが多く、またそれを行動に移すのは良い事とされている。
私は私を正義の側に置くことはしない。同様に私は私を悪の側に置くこともしない。これはメインクエストの光の戦士の冒険譚にも記されているが正義や悪という二元的な分類を行う事が必ずしもより多くの人間を幸せにするとは限らないからだ。しかし、私にもエオルゼアでの生活がある。エオルゼアに生きる私の友人を守る必要があるのですわッ!!
私の中のお嬢様が暴れだし、ついにはイフリートの極悪の首を打ちとったのですわ!!!!汚いトカゲめ!私共の手にかかれば♡すぐに♡焼きトカゲになるんですのよ♡♡♡私の自我は、イフリート討伐の快楽にはかないませんわよ~~~~ッッッ♡♡あぁ、快感ですわ~~~~~~♡♡♡
おしまい
一神教であるガイアララフェル教団の皆様との邪教の神・極イフリート討伐。私を暖かく迎え入れてくれた皆さん、ありがとうございました!ガイアララフェル教団の皆さんは教団の正装である衣に身を包み、聖戦で勇敢に戦っていました。なんだか格好良かったです。